「摂食障害」などという病気は存在しない
『一日一食、量少なめ』を推し進めるカリスマダイエットは、
これまでにもリバウンドや摂食障害のリスクが取り沙汰されてきた。
読者に何度も「摂食障害のリスク」について突っ込まれていたカリスマ・ちゅか君は、
「摂食障害は、そもそも存在しない」という驚くべき見解を発表した。
08年6月7日の記事より。
今日のお話は、以前からお話したかった所謂「摂食障害」の件。
巷に俗説として広められている俗説(専門家も同じ意見の方多数あり?)としては、
”行き過ぎた減食を行えば、人は「摂食障害」になってしまう。
したがって、減食はほどほどにし、運動をメインにして体重を減らすことが望ましい。”
なるデマが喧伝されている。
私(カリスマ:ちゅか君)の理解によれば、これは大間違いの大デマである。
そもそも、「摂食障害」などというそんな病気は元々存在しないのだ。
そこに存在するのは、”甘え”や、”だらしなさ”や、”頭の悪さ”や、その他諸々である。
ううう、いきなりお叱りがありそうですが(´д`)、
この点については僕の真意をよく聞いていただきたい。
例えば、「アルコール中毒」「ニコチン中毒」「カフェイン中毒」
などの病気・症状は、これは確かに存在するだろう。
そして、その原因は、それぞれ、「アルコール」「ニコチン」
「カフェイン」である。ここでは、「原因」→「結果」は、客観的で明白なもの。
一方で、これらと混同されて語られている「依存症」は、
いったいどういうものであろうか?
(アルコール依存症、タバコ依存症、コーヒー依存症)等々。
私の理解によれば(もちろんシロウトだが)、”依存”とは、病気でもなければ、
何ら「要治療」と把握すべきではない。
そもそも、人間は、大なり小なり、何かには必ず依存しているものなのだ。
その依存している”こと””もの”に、問題があれば、
自分の意識によって、止めることもできるし、
依存するものを他に代えることだってできる。
「依存症」なる”病気”はそもそも存在しないもので、
意志の問題があるのみである。
そもそも、タバコを止める必要があるのか、
コーヒーを止める必要があるのか、という問題がある。
有害が、客観的に証明されている件については確かに
「止めねばならぬはずのものが、止められない」という、
半ば”ビョーキ”と捉えられる面もあるかも知れないが、
そもそも、それが本当に明白に有害なものなのか、
本当に止めねばならぬものなのか、という議論がまず必要だ。
人がタバコが止められないのは、タバコの害が逼迫していないからだ。
タバコを止めたところで、果たして余命が伸びるか、
健康が期待したほど増進するのか、これは定かでないことだから。
さらに、本当に各所で悲劇に次ぐ悲劇を生じている
「パチンコ依存症」。
アルコール中毒と、アルコール依存症を混同する思想によれば、
これは、パチンコという有害なものが当局に放置されていることにより、
本来善良でマジメなはずの人間が被害にあい、
そして、借金苦や破産に追い詰められている被害者である、と。
私の理解によれば、そうではない。
パチンコ依存症の原因は、パチンコではない。
依存症になる人間の、意志の問題だけである。
敢えて独断で断言するが、この場合は、
意志の問題、本人の自覚の問題が100%である。
また、逆からも言える。
パチンコに依存した生活を送るにせよ、それは自由であり、
「要治療」なるレッテル張りこそが問題なのだ。
パチンコ依存症たる人は、しばしばこのように言う。
「自分の収入・小遣いの範囲で、楽しんでいるだけだ。
なんら非難されるいわれはない。」
もっともである。
もちろん、自分の収入・小遣いの範囲を超えてやって
しまい、借金苦や破産やその他の悲劇に至ろうとも、
パチンコをやったこと自体は、なんら非難されるいわれはない。
それに第一、パチンコで全財産を使い切ってしまえば、
もうパチンコに依存しなくてもよくなるであろう。
依存症は自動的に完治する、というわけ。(笑)
さらに、そして。
パチンコですら然りなら、コーヒーや、アニメ・アイドルや、
コレクションや、いろいろもろもろ。
”依存”ぐらいしたってよいではないか、となるべき。
さて、脱線したが、「摂食障害」に話を戻しまして。
摂食障害とは、通常のようにちゃんとおいしく食事をして
通常どおり生活することができなくなり、
絶食と過食を繰り返したり、過食して嘔吐を繰り返したりする症状で、
嵩じると、自殺未遂っぽい問題行動とか、
やせすぎによる健康被害や、栄養失調などを起こすというもの。
上記のパチンコ依存症の場合で考えて見てもらいたいが。
また、アルコール中毒とアルコール依存症は
別件であることを考えて併せて欲しいのだが。
ダイエットが原因で、摂食障害が起きるのでは決してないということなのだ。
ましてや、自殺未遂など、ダイエットとは無関係のはず。
このように言えば、
私のことを、メンタル面の問題に対して差別意識を持つ者であるとして、
非難すべきと思う方もきっとおられると思うが。
メンタル面のことについて、差別意識など私は決してもっていない。
むしろ、次ぎのように考える。
人は、誰でも、常に、メンタルに大なり小なり問題を抱えている。
そして、誰でも、いつでも、重篤な精神病に掛かる可能性が常にある。
だから、差別意識をもってはいけない。
だから、周囲の人間は、次ぎは自分の番かもという意識であるべきであり、
そうすれば周囲にもなにか本人の助けになれる場合もありえる。
であるから。
摂食障害についての理解については、
「ダイエット=摂食障害の原因=悪」というレッテル張りはふさわしくなく、
なぜなら、ありとあらゆることは、メンタル面でトラブルを生じる可能性があるのだから。
例えば、実際の例でもっともメンタルで問題を生じやすいのは、
言うまでもなく「人間関係」である。これは明らか。
だからと言って、
”「人間関係」は、「××障害」や「××症」
の原因になる。従って人間関係は一切止すのが望ましい”
などということは、言えるのだろうか?
そうです。そんなバカなことは誰も言わない。
故に。
”行き過ぎた減食は、摂食障害の原因になる。”
というのは、これは違うのである、と、そういうことです。
では、どのように対策すればよいのか。
そこも併せて考えて行こうと思います。
メンタル面の問題のことが、常に差別的に用いられているという問題は、
私もこれには反発を感じているものです。
このブログでも、筆者の私(ちゅか君)に対して、何度も、
「早く精神科行けよ。」だとか、「メンタル面に〜」だとか、
「脳が〜」だとか、そういう言葉での人格攻撃がなされています。
(´д`)
そうです。
”ビョーキ”が差別されているのではなく、
人格を否定したい、攻撃したいという者が、”ビョーキ”を
出汁につかって言うため、だから、”ビョーキ”がいつまでたっても
差別的ニュアンスを持ち続けるのだ、と。
では、どうすればよいのか?
「摂食障害」と言われる状態になっている人が実際にいたとして、
次ぎは、アドバイスです。
過食も嘔吐も、人に見せてはいけません。
こっそり、ひっそり、自分だけで行って、
後は、何もなかった顔をして平然としていてください。
周囲に自分のメンタルの問題を触れ回ってはいけません。
周囲に対しては、元気に明るく振舞ってください。
そして、元気に明るく、それを装うと、本当に元気に明るくなれます。必ず。
そして、そこを突破口にして改善して言ってください。
そして、私が上記で言いました、
「そもそも摂食障害など存在しないのだ」をちょっと念頭に
おいてヒントにしていただきたい。
”ビョーキ”呼ばわりされているのは、周囲に不快感を与えているからです。
周囲を巻き込んでいるから、人格攻撃の代替に”ビョーキ”にされているのですから。 |
1.そもそも摂食障害とは?
カリスマ・ちゅか君は、摂食障害を「パチンコ依存症」あたりと同じように思っているようだが、
私の知る限り、そんな生易しいものではない。
(以下の記述に不備や不適切な点があれば、ご指摘よろしくお願いいたします)
元々「痩せたい」願望を強く持っていたり、真面目で人目を気にし過ぎる性格だったりする方が、
極端なダイエットなどを引き金に、食衝動をコントロールできなくなるのが「摂食障害」である。
摂食障害は、主に過食症・拒食症・特定不能の摂食障害の3つに分類される。
過食症は、普通では考えられない量の食物(主として炭水化物)を衝動のままに食べ、
落ち着いた後で自己嫌悪に陥り、中には食べたものを吐く方もいるという。
拒食症は、食べることへの強い嫌忌や恐怖から食欲が湧かなくなり
食べ物を受け付けなくなるもので、場合によっては命の危険さえある。
そして、極端なダイエットと、痩せることへの過剰な願望、ストレスが
摂食障害の引き金となることは、既に因果関係がはっきりした定説となっている。
ダイエットを引き金に起こる場合の「過食症」「拒食症」の場合、
その根底にあるのは、本人の意思では拭い去れないほどの
「痩せたい願望」と「食べることへの嫌忌」である。
全てのケースでそうだとは言い切れないが、
「過食」と「拒食」はコインの表裏だということができるだろう。
人が生きていく上で、食べることは避けられないことだ。
そこに深刻な問題が生じる…ということは、当人の社会生活や精神状態に
どれほど深刻な影響が出るか、想像に難くないだろう。
そして、当人が「もっともっと痩せたい願望」や「食べることへの嫌忌」が間違いだと気付いても、
食衝動の乱れや内面の葛藤が簡単に治まるわけではない。
医師の治療やカウンセリング、家族やパートナーの支え、
患者本人の自覚と前向きな意欲が重なって、徐々に寛解していくものである。
…以上の説明で、摂食障害が「そもそも存在しない」と言い切ってしまえるほどの
生易しいものではないことはご理解頂けると思う。
ちゅか君は、
”ビョーキ”呼ばわりされているのは、周囲に不快感を与えているからです。
と言っているが、当人の意思や自覚で行動や精神状態ををコントロールできない、
言い換えれば自助努力で改善が見込めないほど深刻な状態だからこそ、
病気として認知され、カウンセリングや薬物による療法が行われているのである。
その現場に存在するのは、決して
”甘え”や、”だらしなさ”や、”頭の悪さ”や、その他諸々
ではなく、食衝動や心の状態を見直し、解きほぐし、
少しでも改善に向かおうとする、必死の格闘である。
食べ物を目にする度に
「食べたい」「食べたくない」「食べるのが怖い」「食べていいのだろうか?」を
毎日グルグルと繰り返す姿は、悲痛そのものだ。
むしろ、食べることに対する「甘え」「だらしなさ」を徹底的に排除していった結果として
強いストレスがかかって、摂食障害になってしまった…ということができるだろう。
このように、摂食障害は事実として存在しており、
医学的には勿論のこと、賢明なダイエッターの多くに認知されている症例でもある。
にもかかわらず、カリスマ・ちゅか君が「摂食障害などない!」と断言するのは、
既に摂食障害になりかけている人への、カリスマなりの気休めでありエールであろう。
ちゅか君には、厳しい事実をどうしても認知したくない…という内面的傾向があり、
他の人もきっとそうに違いないと思っているところがある。
だからこそ、食べるのをやめられなくて苦しんでいる人や、
食べられなくて苦しんでいる人に対して、
「事実はどうでもいいから、とりあえず明るく振舞っておきなさい」という
お粗末な糊塗策しか提示できないのであろう。
※蛇足ながら、「依存症」についても補足。
これも、当人の意志で依存を断ち切るのが困難であり、深刻なものになると
社会生活そのものにも悪影響を及ぼすものであるため、決して軽視して良いものではない。
2.「人格否定」「人間関係のストレス」にみる、カリスマの姿
上記文中でカリスマは、自らがブログのコメントで人格否定をされていることを挙げ、
また、メンタル面で問題を起こす主原因として「人間関係」を挙げている。
たとえ自説が正しかろうと間違っていようと、問題提起さえできればそれで良く、
自分の説や発言によって人がどういう影響を受けようと「あとは野となれ山となれ」と
ちゅか君は考えている。
とにかく自説を知ってもらえればそれで良し、反論は一応聞くが実質的に受け付けない、
そんなちゅか君は、ひたすらに「カリスマダイエットを啓蒙する」道を行く者である。
カリスマにとってみれば、コメントのやりとりは
あくまで頑なな自分を誇示するパフォーマンスであり、内容そのものにさしたる意味はない。
このカリスマならではの偏執さ故に、
「ちゅか君は精神や人格に問題があるのではないか?」と多くの読者から指摘されている。
しかし、ちゅか君はそうした指摘が何故為されるのか考えもせず、
「人格否定」であり「偏見」であり「反論できない故の負け惜しみ」であるとぶった斬っているわけだ。
そして、この記述の裏には、こうした「精神や人格に関する指摘」に憤懣やるかたない
カリスマの姿が浮かんでくるのである。
また、ストレスの主原因に「人間関係」を真っ先に挙げるあたりにも、
ちゅか君が、自身のカリスマ性のおかげで、人間関係に苦労して
ストレスを溜め込んでいる姿が想像できる。
そう、ちゅか君はどこまでいっても「カリスマ」なのである。
そしてこれからも、カリスマダイエット啓蒙のためならば、どれだけ人間関係に火種を抱えようと、
「退かぬ、媚びぬ、省みぬ」の精神で、茨の道を突き進むのであろう。
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